Goldpreis
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シンガー・ソングライターの小椋佳さんが、梅沢富美男さんの「夢芝居」と美空ひばりさんの「愛燦燦」の制作秘話を振り返った。
シンガー・ソングライターの小椋佳さんが、作詞・作曲を手がけた梅沢富美男さんの「夢芝居」と、美空ひばりさんに提供した「愛燦燦」の制作過程を振り返った。昭和57年にキングレコードから発売された「夢芝居」は時代を代表するヒット曲となったが、小椋さんは依頼を受けた当初、断る可能性もあるほど積極的ではなかったという。
依頼したのは、会社の経理職を辞めてキングレコードに入り、ディレクターとして最初に梅沢さんを担当した人物だった。その担当者が小椋さんのファンで、制作を強く希望した。小椋さんの記憶では、依頼は旅芸人向けの演歌で、受ける曲を一つ作ってほしいという内容だった。デモテープを聞いた時点では梅沢さんの歌唱に強い印象を持たず、曲が売れるとは考えていなかった。
制作のきっかけは、予定していたゴルフが雨で中止になったことだった。午前中、女性童謡歌手から依頼されていた現代的な童謡を作り、午後に梅沢さんの曲へ取りかかった。そこで、先に作った童謡の旋律を短調に変え、歌詞を付けたものが「夢芝居」になった。
発売直後から売れたわけではなく、反響が広がったのは約半年後だった。その間に関係者は「夢芝居」が駄目なら別の曲へ切り替えることも考え、小椋さんは次の候補として、より演歌らしい「演歌みたいな別れでも」を制作した。しかし、その曲を売り出し始めたころに「夢芝居」が伸び始めた。力を入れた作品が必ず成功するわけではなく、何がヒットにつながるかは分からないと振り返っている。
その後も昭和58年の研ナオコさん「泣かせて」、昭和61年の堀内孝雄さん「愛しき日々」などを手がけ、同年には美空ひばりさんの「愛燦燦」を提供した。この曲は味の素のCM映像に合わせる形で依頼され、制作時点では美空さんが歌う予定ではなかった。完成後に歌手を選ぶことになり、小椋さんは大農家の主婦をイメージしていたという。
「愛燦燦」も当初はヒットを予想していなかった。小椋さんは、美空さんが平成元年に亡くなった後、本人の人生を歌った曲として受け止められ、売り上げが伸びたとの見方を示した。日本コロムビアでは在庫が不足したとも聞いたという。
レコーディングでは、美空さんが低音から高音へ移る際に大きくしゃくり上げて歌ったため、小椋さんは曲の品位を損なわないよう、よりまっすぐ歌うことを提案した。美空さんはすぐに修正した。大歌手への助言だったため、小椋さんも気を遣い、命令ではなく提案する形で伝えたと話している。
H.Nakamura--JT