寺田和雄氏、花粉研究への関心と金沢大受験を回想 不合格発表後に補欠合格
福井県立恐竜博物館副館長の寺田和雄氏が、高校の生物部で花粉研究に関心を持った経緯と、1986年の金沢大学受験を振り返った。
福井県立恐竜博物館副館長の寺田和雄氏は、産経新聞の連載「話の肖像画」のインタビューで、花粉から過去の気候を探る研究への関心が高校時代に育ったことを明らかにした。1986年に受験した金沢大学理学部地学科では、いったん不合格を確認した後、補欠合格の知らせを受け取ったという。聞き手は喜多由浩氏。
大阪府立三国丘高校の生物部で、寺田氏は実験を継続していた。寒天培地を用意してさまざまな花粉を置き、数日後に伸びた花粉管核を染色して観察するという内容だった。説明すると難しく聞こえるものの、作業自体はそうした手順の繰り返しだったと振り返っている。
当時の生物部では、全員共通の課題や活動内容は定められていなかった。魚を飼育する生徒やホタルを研究する生徒などが、それぞれの関心に沿って活動し、特定の成果を出すよう求められることもなかった。他の生徒の取り組みを見て過ごす部員や、籍だけを置いている部員もいたという。
寺田氏にとって、その環境で実験を続けたことが花粉への強い興味につながった。さらに知識を深めるきっかけになったのが、部で定期購読していた雑誌「遺伝」だった。岡山理科大学の教員が書く、毎号2ページほどの「花粉分析」のコラムを熱心に読んでいた。
コラムで知ったのは、地層にも花粉が残り、それを分析すれば当時の気候や気候変動まで調べられるということだった。寺田氏は大学に進んだら花粉分析に取り組み、過去の気候を明らかにしたいと考えるようになった。大学受験のころには、研究職か博物館の学芸員になることを将来の仕事として思い描いていた。
志望先を決める際には、当時の国公立大学入試の仕組みが大きく関係した。まずマークシート方式の共通1次試験を受け、その後に受験できる国公立大学の2次試験は一校だけだった。共通1次試験は現在の大学入学共通テストに当たる試験で、寺田氏の成績は想定していたほど良くなかった。
そこで2次試験の配点が大きく、点差を取り戻す余地のある大学を探した。英語の成績に自信がなかったため、理学部の2次試験に英語が課されないことも条件にした。複数の候補から金沢大学を選ぶうえでは、父親の勧めも大きかったという。
昭和一桁生まれの父は、旧制高校に強い思い入れがあった。1887年、明治20年創立の第四高等学校を前身とする金沢大学について、師範学校などを前身とする大学とは雰囲気が異なると説明していた。四高は全国に八つあったナンバースクールの一つで、旧制高校は1950年、昭和25年に廃校となった。寺田氏も父の話から金沢大学にひかれていった。
理学部で地学科を受けるか、生物学科にするかは直前まで迷った。最終的には、前年の競争倍率が1.1倍と低かった地学科を選択した。ところが、1986年の地学科は約2倍に上がり、一方の生物学科は1.1倍になっていたという。
合格発表は大阪から北陸本線の特急に乗って見に行った。掲示の中に自分の受験番号を見つけられず、不合格の結果に帰りの列車では強いショックを受けた。悔しさから翌年はもっと良い大学に入ろうと考えたが、その後、補欠合格を知らせる連絡が届いた。
S.Yamamoto--JT