小椋佳が振り返る銀行員時代 合併後の派閥争いと支店での日々
小椋佳が振り返る銀行員時代 合併後の派閥争いと支店での日々。《東大を卒業した小椋さんは昭和42年、日本勧業銀行(現みずほ銀行)に入行した。
《東大を卒業した小椋さんは昭和42年、日本勧業銀行(現みずほ銀行)に入行した。研修後、配属されたのは銀座支店だった》 早稲田大を出て、僕と同期で銀行に入り、ずっと親友として付き合っていたヤツがいましたが、残念ながら一昨年亡くなりました。
詩を書き、絵も描く男で、彼は日本橋支店。よく2人で一緒に仕事をさぼって、晴海へ海を見に行ったりしました。
理屈っぽいヤツで、よく僕の家に遊びに来て2人で哲学の話を夜中までしました。するとおふくろが「いつまでくだらないこと言ってんだい!
」と怒鳴り込んでくるんです。いやー楽しかったけどな、あのころは。
女子行員もいっぱいいました。「君らこんなところにいていいのかい」「こんな職場は早く辞めた方がいい」などと挑発的な文章などを書き、ガリ版刷りで週1回、5、6枚のペーパーにして発行したこともあります。
「デマラ」というあだ名をつけられてしまいました。あるとき、ある会社の方が「預金通帳を盗まれた」と届けにきたことがありました。
僕は「(泥棒は)すぐに現金にしたいだろう」と考えて、実際下ろしに来たその泥棒を他の行員や警察と協力してつかまえたこともありましたね。《1年半の内部事務研修の後、営業担当になった》 外回りを3カ月やったところ、すごく成績がよかったんです。
でもそれは、僕が頑張ったからではなくて、僕の前任者がまともに仕事した人だったからなんですよ。その成果がその期末に出たんですね。
前任者のおかげで僕の評価も上がりました。成績がよかったので「資生堂グループの専任担当をお前がやれ」と言われ、それから丸1年半かな、資生堂通いをやりました。
資生堂では財務部だけではなく、資生堂商事、資生堂パーラー、資生堂化粧品、それから労働組合などすべてです。まったく、資生堂の社員みたいなもんですよね。
資生堂の秘書さんというのがみんなかわいいんです。秘書室とも随分付き合いました。
秘書室には重要なお客さんが来るんですよ。他の銀行の重役さんも来るんです。
資生堂の重役さんは、どこの銀行の重役さんと会っているかとかね、秘書室からはそういう情報をもらいました。労働組合にも出入りしました。
経営協議会というのが毎月1回あったんです。資生堂は、経営計画を会社側と組合とで協議するという会社だったんです。
だから経営者が、これから計画していることは、組合も全部知っている。組合に行ってその情報をもらったりしました。
僕は資生堂担当が終わると、アメリカに留学しましたが、留学前には「資生堂論」という論文を書いていきました。(51年に発売された)資生堂のCMとタイアップした曲「揺れるまなざし」は、後に頼まれて創りました。
アイシャドーの宣伝用だ、と言われて。その手の依頼は断っていたんですが、資生堂にはお世話になりましたから。
少しでも恩返しができたのならよかった。《46年、第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行となった。
当時は「DK戦争」と呼ばれるほど、派閥争いがあった》 僕が茅場町支店の証券担当をしているときに合併しました。派閥というか、元の銀行から来た同士が集まるとか、一方が一方に嫌がらせをするなど、醜い争いがずっとありましたね。
さらに大きくなり、現在はみずほ銀行になりましたが、違う銀行同士が合併するというのはそういうもんなんだな、と思いましたね。(聞き手 江目智則)
K.Yamaguchi--JT